Title : 惡魔
Author : Jun'ichiro Tanizaki
Release date
: October 3, 2011 [eBook #37605]
Most recently updated: February 24, 2021
Language : Japanese
Credits : Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka
Title: 惡魔 (Akuma)
Author: 谷崎潤一郞 (Junichiro Tanizaki)
Language: Japanese
Character set encoding: UTF-8
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka.
眞つ暗な箱根の山を越すときに、夜汽車の窓で山北の
「あゝ、これで己もやうやう、生きながら東京へ來ることが出來た。」
斯う思つて、ほつと一と息ついて、胸をさすつた。名古屋から東京へ來る迄の間に、彼は何度途中の停車場で下りたり、泊つたりしたか知れない。今度の旅行に限つて物の一時間も乘つて居ると、忽ち汽車が恐ろしくなる。さながら自分の衰弱した魂を恐喝するやうな勢で
「あツ、もう堪らん、死ぬ、死ぬ。」
かう叫びながら、野を越え山を越えて走つて行く車室の窓枠にしがみ着くこともあつた。いくら心を落ち着かせようと焦つて見ても、强迫觀念が
「ほんたうに命拾ひをした。もう五分も乘つて居れば、屹度己は死んだに違ひない。」
などゝ腹の中で考へては、停車場附近の旅館で、一時間も二時間も、時としては一と晚も休養した後、十分神經の靜まるのを待つて、
「それでもまあ、よく無事に來られたものだ。」
と思つて、彼は新橋驛の構内を步みながら、今しも自分を放免してくれた列車の姿を、いまいましさうに振り顧つた。靜岡から何十里の
人々の
「おい、幌をかけてくれ。」
かう云つて、停車場前の熱した廣い地面からまともにきらきらと反射する光線の刺戟に堪へかね、まぶしさうに兩眼をおさへた。
漸く九月に這入つたばかりの東京は、まだ殘暑が酷しいらしかつた。夏の大都會に溢れて見える自然と人間の旺盛な活力―――急行列車の其れよりも更に凄じく逞しい勢の前に、佐伯はまざまざと
今迄ひたすら暗黑な夜の魔の手に惱まされて居た自分の神經が、もう白日の威力にさへも堪へ難くなつて來たかと思ふと、彼は生きがひのない心地がした。これから大學を卒業する迄四年の間、晝も夜も
「ねえあなた、どうせ
岡山で馴染みになつた藝者の
俥はいつか本郷の赤門前を走つて居る。二三年前に來た時とは大分變つて、新らしく取り擴げた左側の人道へ、五六人の工夫が、どろ〳〵に煮えた黑い
「彼奴等は皆己の
そんな事を考へて居るうちに、やがて「林」と肉太に記した、叔母の家の電燈の見える臺町の通りへ出た。門内に敷き詰めた砂礫の上を軋めきながら、俥が玄關の格子先に停ると、彼は漸く兩手を放して、駈け込むやうに土間へ入つた。
「二三日前に立つたと云ふのに、今迄何をして居たのだい。」
元氣の好い聲で云ひながら、叔母は佐伯を廊下傳ひに、一と先づ八疊ばかりの客間へ案内して、いろ〳〵と
「ふむ、さうかい。………お父さんも今年は大分儲けたつて話ぢやないか。お金が儲かつたら
佐伯は頓狂な話を聞きながら、にや〳〵と優柔不斷の笑ひ顏をして、頻りに
家の中へ落ち着いて見ると、暑さは
のべつに
「照ちやんかい。」
と呼びかけたが、返事のないのに暫く考へた後、
「照ちやんなら、ちよいと此處へお出でゞないか、謙さんがお前、漸く今頃名古屋からやつて來たんだよ。」
かう云つて居るうちに襖が開いて
佐伯は重苦しい頭を上げて、さやさやと衣擦れの音のする暗い奧の方を見た。今しがた出先から歸つて來た儘の姿であらう。東京風の粹な
「どうしたい、赤坂の方は。お前で用が足りたのかい。」
「えゝ、
「さうだらう。其の筈なんだもの。一體鈴木があんな
「其れも左樣ですけれど、
「さうだともサ、………
親子は暫くこんな問答をした。薄馬鹿と云ふ噂のある、此の家の書生の鈴木が、何か又失策を演じたものらしい。別段今此の場で相談せずともの事だが、叔母は甥の前で、自分の娘の利巧らしい態度や話振を、一應見せて置きたいのであらう。
「お母さんも亦、鈴木なんぞをお賴みなさらなければ好いのに、後で腹を立てたつて、仕樣がありませんよ。」
照子は
二三十分立つてから、彼は自分の居間と定められた二階の六疊へ上がつて行つた。さうして、行李や鞄を運んでくれた書生の鈴木が下りてしまふと、大の字になつて眉を顰めながら、庇の外の炎天をぼんやりと視詰めて居た。
正午近い日光は靑空に漲つて、欄干の外に見晴らされる本郷小石川の高臺の、家も森も大地から蒸發する熱氣の中に朦々と打ち烟り、電車や人聲やいろ〳〵の噪音が一つになつて、遠い下の方からガヤガヤと響いて來る。何處へ逃げても、醜婦の如く附き纏ふ夏の恐れと苦しみを、まだ半月も
東京には二三度來たこともあるし、學校も未だ始まらないし、何を見に行く氣も起らずに、每日々々彼は二階でごろ寢をしながら、まづい煙草を吹かして居た。敷島を一本吸ふと、口中が不愉快に乾燥して、直ぐゲロゲロと物を
「まあ、えらい吸殻だこと、のべつに兄さんは召し上がるのね。」
こんな事を云ひながら、照子は時々上がつて來て、煙草盆を眺めて居る。夕方、湯上がりなどには藍の雫のしたゝるやうな生々しい浴衣を着て來る。
「頭が散步をして居る時には、煙草のステツキが入用ですからね。」
と、佐伯はむづかしい顏をして、何やら解らない文句を並べる。
「だつてお母さんが心配して居ましたよ。謙さんはあんなに煙草を吸つて、頭が惡くならなければ好いがつて。」
「どうせ頭は惡くなつて居るんです。」
「それでも御酒は上がらないやうですね。」
「ふむ、………どうですか知らん。………叔母樣には内證だが、まあ此れを御覽なさい。」
かう云つて、錠の下りて居る本箱の抽出しから、彼はウヰスキーの罎を取り出して見せる。
「此れが僕の麻醉劑なんです。」
「不眠症なら、お酒よりか睡り藥の方が利きますよ。妾も隨分内證で飮みましたつけ。」
照子はこんな
暑さは日增しに薄らいだが、彼の頭は一向爽やかにならなかつた。後腦が
それでも一週間目の朝からは、新調の制服制帽を着けて、彈力のない心を引き立たせ、不承々々に學校へ出掛けたが、三日も續けると、直ぐに飽き飽きしてしまひ、何の興味も起らなかつた。
よく世間の學生逹は、あんなに席を爭つて敎室へ詰めかけ、無意義な講義を一生懸命筆記して居られるものだ。敎師の云ふ事を一言半句も逃すまいと筆を走らせ、默々として機械のやうに働いて居る奴等の顏は、朝から晚迄悲しげに蒼褪めて、二た眼と見られたもんぢやない。其れでも彼奴等は、結構得々として、自分逹が如何に見すぼらしく、如何に
「………エヽ前囘に引き續きまして、………」
とやり出すと、場内に充ち滿ちた
「さあさあ早く氣狂ひにおなんなさい。誰でも早く氣狂ひになつた者が勝ちだ。可哀さうに皆さん、氣狂ひにさへなつて了へば、其んな苦勞はしないでも濟みます。」
何處かで、こんな蔭口を利いて居る奴の聲も聞える。他人は知らないが、佐伯の耳には、
アルコールと一緖に、だんだん惡性の病毒が、腦や體を侵して來るやうであつた。東京へ出たらば、上手な醫者に診察して貰ひませうと思つて居たのだが、今更注射をする氣にも、賣藥を飮む氣にもなれなかつた。彼はもう骨を折つて健康を囘復する精力さへなくなつて居た。
「謙さん、一緖に歌舞伎へ行かないかね。」
などゝ、叔母はよく日曜に佐伯を誘つた。
「折角ですが、僕は人の出さかる所へ行くと、何だか
かう云つて、彼は惱ましさうに頭を抱へて見せる。
「何だね、意氣地のない。お前さんも行くだらうと思つて、態々日曜迄待つて居たんだのに、まあ好いから行つて御覽。まあさ、行つて御覽よ。」
「いやだつて云ふのに、無理にお勸めしたつて駄目だわ。お母樣は自分ばかり呑氣で、ちつとも人の氣持が解らないんだもの。」
と、傍から照子が
「だけど、
と、叔母は二階へ逃げて行く佐伯の後ろ姿を見送りながら、
「猫や鼠ぢやあるまいし、人間が恐いなんて
と、今度は照子に訴へる。
「人の氣持だから、さう理責めには行かないわ。」
「あれで岡山では大分放蕩をしたんださうだが、もう少し人間が碎けさうなものだね。尤も書生さんの道樂だから、知れて居るけれど、未だ
「謙さんだつて、妾だつて、學生のうちは
照子は斯う云つて、皮肉な人の惡い眼つきをする。結局、親子は女中のお雪を伴れて、書生の鈴木に留守を賴んで出かけて行く。
鈴木は每朝佐伯と同じ時刻に、辨當を下げて神田邊の私立大學へ通つて居た。家に居ると玄關脇の四疊半に籠つて、何を讀むのか頻りにコツコツ勉强するらしい。眉の迫つた、暗い顏をいつも
「鈴木を見ると、家の中に
と、叔母の云つたのもの無理はない。馬鹿ではあるが、いやに陰險で煮え切らない所がある。あれでも幼い頃には
みしり、みしり、と
「何か御勉强中ですか。」
と云ひながら、鈴木は其處へ据わつて、部屋の中をじろじろ見廻した。
「いや。」
と云つて、佐伯は居ずまひを直して、
「大變夜が長くなりましたな。」
曖昧な聞き取りにくい聲で、もぐもぐと物を云つたが、やがて鈴木はうつ向いてしまつた。毒々しい油を塗つた髮の毛が、電燈の下で
が、鈴木はなか〳〵喋舌り出さない。「あなたは其處で勉强して居るがいゝ。私は自分の勝手で此處に坐つて居るのだ。」と云はんばかりに、疊の目を睨みつゝ、上半身で貧乏搖すりをして居る。………夜は非常に靜かである。
「甚だ突然ですが、少し其の、あなたに伺ひたい事があつて………」
いよ〳〵何か云ひ始めた。相變らず疊を視詰めて、貧乏搖すりをして、
「………他の事でもありませんが、實は照子さんの事に就いてなんです。」
「はあどんな事だか、まあ云つて見給へ。」
佐伯は出來るだけ輕快を裝つて、少し
「それからもう一つ伺ひたいんですが、一體あなたが此の家へ入らつしやつたのはどう云ふ關係でございませう。」
「どう云ふ關係と云つて、僕と此處とは親類同士だし、學校も近いから、都合が好いと思つたんです。」
「唯其れだけですかなあ。あなたと照子さんとの間に、何か關係でもありはしませんか。親と親とが、結婚の約束を取り極めたとでも云ふやうな。」
「別にそんな約束はありませんがね。」
「さうですかなあ、
鈴木は
「いゝや、全くですよ。」
「まあ其れにしても、此れから先になつて、あなたが欲しいと仰つしやれば、結婚なさる事も出來さうだと思ひますが、………」
「欲しいと云つたら、叔母は吳れるかも知れないけれど、當人が判りますまい。其れに僕は當分結婚なんかしませんよ。」
佐伯は話をして居るうちに、だんだん癪に觸つて來て、何だか馬鹿が此方へも乘り移りさうな氣分になつた。大聲で怒鳴りつけてくれようかと思ふ程、胸先がムカムカしたが、ぢつと
「しかし結婚はどうでも、兎に角あなたは照子さんが御好きでせう。嫌ひと云ふ筈はありませんよ。どうも僕にはさう見えます。」
「別段嫌ひぢやありません。」
「いや好きでせう。或は戀していらつしやりはしませんか。其れが僕は伺ひたいのです。」
かう云つて、鈴木は如何にも根性の惡さうな、
「戀をしてゐるなんて、そんな事は決して。」
と、佐伯はおづおづ辯解しかけたが、どうした加減か、中途で急に腹が立つて來た。
「一體君は、そんな事を
喋舌つて居る間に、心臓がドキドキ鳴つて、
「さうお怒りになつちや困りますなあ。僕は唯あなたに忠吿したいと思つたんです。照子さんは中々一通りの女ぢやありませんよ。不斷は猫を被つて居ますが、腹の中ではまるで男を馬鹿にし切つて居るんです。實は
と、鈴木は一段聲をひそめ、膝を乘り出して、さも同感を求めるやうな口調で、
「大槪お解りでせうが、
さう云つて、暫く相手の返事を待つて居たが、佐伯が何とも云はないので、又話を續ける。
「けれども全く美人には違ひありませんね。僕は彼の女の爲めなら、命を捨てゝもいゝ積りなんです。照子のお父樣が生きて居る時分に、確かに僕に吳れると云つたんです。實は話がさうなつて居たんですが、此の頃になつて、どうも母親の考が變つたらしく思はれるものですから、其れで
こんな事を、とぎれ〳〵に、ぶつぶつと繰り返して、いつ迄立つても止みさうもなかつたが、突然
「何卒今日の話は内分に願ひます。」
かう云ひ捨てて、鈴木は大急ぎで下へ行つた。
何でも十一時近くであらう、其れから一時間ばかり立つて、皆寢靜まつた頃に、
「謙さん、まだお休みでないか。」
と云ひながら、叔母がフランネルの寢間着の上へ羽織を引懸けて、上がつて來た。
「
かう云つて、佐伯の凭れて居る机の角へ頰杖を衝いて、片手で懷から煙草入を出した。多少氣がゝりのやうな顏をして居る。
「えゝ來ましたよ。」
「さうだらう。何でも歸つてきた時に、ドヤドヤと二階から下りて來た樣子が變だつたから、行つて聞いて見ろツて、照子が云ふんだよ。めつたにお前さんなんぞには、
「愚にも附かない事ばかり。
珍らしく佐伯は、機嫌の好い聲で、すら〳〵と物を云つた。
「又私の惡口ぢやないのかい。方々へ行つて、好い加減な事を觸れて步くんだから困つちまふよ。あれで、
「さうなんです。」
「そんなら、もう聞かないでも、大槪わかつて居らあね。若い男がちよいとでも照子と知り合ひになると、直ぐに彼奴は聞きに出かけるんだよ。彼奴の癖なんだからお前さん惡く思はないやうにね。」
「別に何とも思つちや居ません。しかし
「お困りにも、何にも………」
と、眉を顰める拍子に、ぽんと
「彼奴の爲めには、私は時々
ふと、佐伯は、フランネルに包まれた、むくむくした叔母の體が、襟髮か何かをムズと摑まれて、殘酷に
「………だから私も心配でならない。照子だつて、いづれ其のうち婿を貰はなけりやならないけれど、又あの馬鹿が、何をするかも知れないと思ふと………」
いつの間にか火を附けたと見えて、叔母の鼻の孔から、話と一緖に白い煙の塊がもくもく吐き出され、二人の間に漂ひながら、はびこつて行く。
「それに照子が、緣談となると嫌な顏をするので、私も弱り切るのさ。謙さんからもちつとさう云つて見ておくれな。そりや私も隨分呑氣だけれど、彼の
叔母はいつもの元氣に似合はず、萎れ返つて、散々愚痴をこぼしたが、十二時が鳴ると話を切り上げ、
「さう云ふ譯だから、鈴木が何と云つたつて、取り上げないでおくんなさい。あんな奴に掛り合ふと、しまひにはお前さん迄恨まれるからね。―――さあ〳〵遲くなつちまつた。謙さんもモウお休み。」
かう云つて下りて行つた。
明くる日の朝、佐伯が風呂場で顏を洗つて居ると、
「お早う。」
と、佐伯は少しギヨツとして、殊更機嫌を取るやうに聲をかけたが、何か非常に腹を立てゝ居るらしく、暫くは返事をせずに面を脹らして居る。
「あなたは、昨夜の事をすつかり云附けましたね。―――お
かう云つて、ぷいと風呂場を出て行つたかと思ふと、何喰はぬ顏をして庭を掃いて居る。
「とうとう己にも魔者が取り付いた。」
佐伯は腹の中で斯う呟いた。彼奴は人が親切にしてやればやる程
鈴木はまだ庭を掃いて居る。頑丈な、糞力のありさうな手に箒を握つて、臀端折りで庭を掃いて居る。あの體で押さへ付けられたら、己はとても身動きが出來まい。―――種々雜多な、取り止めのないもや〳〵とした恐怖が、佐伯の頭の中に騷いで居る。
十月も半ばになつて、學校の講義は大分進んだが、彼のノートは一向厚くならなかつた。「なに每日出席しなくつてもいいんです。」とか、「今日は少し氣分が勝れない。」とか、だんだん
照子は日に何度となく二階へ上がつて來る。あの大柄な女の平
「私が梯子段を上がる度每に、鈴木が可笑しな眼つきをするから、猶更意地になつてからかつてやるのよ。」
かう云つて、照子は佐伯の眼の前へ坐りながら、
「此の二三日
と袂から手巾を出して
「こんな女は、感冐を引くと、餘計 attractive になるものだ。」
と思つて、佐伯は額越しに、照子の目鼻立ちを見上げた。寸の長い、たつぷりした顏が、喰ひ荒した喰べ物のやうに
「ふむ、ふむ。」
と、好い加減な返事をして、胸高に締めた鹽瀨の丸帶の、一呼吸每に顫へるのを、
「兄さん――あなたは鈴木に捕まつてから、私が來るといやに氣色を惡くなさるのね。」
かう云つて、照子は腰を下ろして、
湯へ這入らない
「何だか僕は、彼奴に殺されるやうな氣がする。」
「どうしてなの。何か殺されるやうな覺えがあつて?あなた迄恨まれる
「そりや何も因緣はないさ。」
佐伯は
「けれども彼奴は、因緣なんぞなくつたつて、恨む時には恨むんだから
「大丈夫よ、そんな事が出來る位な、ハキハキした人間ぢやないんですもの。―――けれども殺すとしたら、先づお母樣だわ。私を殺す氣にはとてもなれないらしい。」
「そいつは判らないな。可愛さ餘つて憎さが百倍と云ふぢやないか。」
「いゝえ、たしかに殺す筈はないの。いつか家を追ひ出された時だつて、お母樣ばかり嚇かして居るんですよ。私は
照子はこつそりと前の方へ、
「其れだのに兄さんが殺されるなんて、其んな事がありつこないわ。よしんば、二人の間にどんな事があつても………」
佐伯は急に、何か物に怖れるやうな眼つきをして、
「照ちやん僕は頭が痛いんだから、又話に來てくれないか。」
と、いらいらした調子で、
間もなく照子と入れ代りに、女中のお雪が上がつて來て、何か部屋の中を、こそこそと捜して居る。
「お孃さんが手巾をお忘れになつたさうですが、御存じございませんか知ら、何でも洟を擤んだ穢い物だから、持つて來てくれと仰つしやいますが。………」
「忘れたのなら、其處いらにあるだらう。僕は氣がつかなかつたがね。」
佐伯は無愛想な返事をすると、背中を向けて寢て了つた。それから、お雪が稍暫く
四つに疊まれた手巾は、
………此れが洟の味なんだ。何だか
やがて二三分立つと、彼は手巾を再び
翌朝佐伯は床を離れると、早速手巾を洋服の
「もう好い加減に降參しろ。」と云はんばかりに、照子は相變らず二階へ上がつて來ては、チクチクと佐伯の神經をつツ突く。あの銀の
「照子の淫婦奴!」
と呻るやうな聲で怒號して見たくなるかと思へば、
「いくら誘惑したつて、降參なんかするものか。己には彼奴にも鈴木にも知れないやうな、秘密な樂園があるんだ。」
こんな負け惜しみを云つて、せゝら笑ふ氣持にもなつた。
Transcriber's Notes
本テキストは昭和三十三年中央公論社刊「谷崎潤一郎全集 第二巻」を定本にした。